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1日付で着任した日本銀行松山支店の秋山修支店長が着任会見を開き、「美しい海を利用した産業が基盤になっており、土地の良さを生かした経済の発展がポイントになるだろう」と愛媛経済の印象を語った。
秋山支店長は東京大学卒業後の昭和60年に日銀に入行、高知支店や本店業務局参事役などを経て松山支店に着任した。丹治芳樹前支店長は、福岡支店長に異動した。
また、同支店は着任会見に合わせて、5月の県金融経済概況を発表し、県内の景気判断を「全体として悪化している」から「(全体的な悪化の一方で)テンポは緩やかになっている」と3年5カ月ぶりに上方修正した。電気機械などで、在庫調整の進捗(しんちょく)や、中国をはじめアジア諸国向けに減産緩和の動きがみられるためという
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2009/02/21 (Sat)
戦前から戦中に中国・上海に作られた日本人小学校の設立過程と運用、校舎の現状を、京都府立大人間環境科学研究科の大学院生、越桐咲子さん(24)が修士論文にまとめた。教育施設でありながら戦争を意識して建設され、利用された歴史を伝える建物という。
■戦前・戦中 軍用前提に設計
明治から昭和にかけての「在外邦人学校関係雑件」(外務省)、日本人組織の上海居留民團(だん)「35周年記念誌」(1942年)などの資料と、当時の学校に通った長崎県在住の80歳の女性に聞き取るとともに、現存の校舎を現地調査した。
上海での日本人教育事業は、1880年ごろに東本願寺別院での有志の寺子屋から始まり、1907年に上海居留民團が高等小学校を設立、1943年までに上海第1日本国民学校から第10同学校まで整備された。
このうち、上海事変(1932、37年)を経て、日本人が急増する39年から43年にかけて6校が新設された。100人単位の児童の転校が相次ぎ、落ち着かない教育環境だったことが教員の日誌に記されていた。
建設当初から戦時の日本人避難所として計画され、戦争の激化とともに軍が駐屯、教員が奉仕活動するなど軍事施設として使われていた。軍用を意識したしっかりとした建物であったため、10校中5校の校舎が現存し、現在も学校として使われている。
また、天皇の御真影(ごしんえい)や「教育勅語」を置く奉安室が校長室の中など校舎の片隅にあり、中国人の反発を意識していたこともうかがえた。
越桐さんは「日本と同じ教育が行われていたにもかかわらず、戦争と強くかかわり、教育と異なる役割も背負わされたことが分かりました」と話している。指導した大場修教授は「小学校は近代上海の日本人街の重要な構成要素でもあった。当時を知る人も少なくなっており、日本人街の歴史をまとめていきたい」と話している。
■戦前・戦中 軍用前提に設計
明治から昭和にかけての「在外邦人学校関係雑件」(外務省)、日本人組織の上海居留民團(だん)「35周年記念誌」(1942年)などの資料と、当時の学校に通った長崎県在住の80歳の女性に聞き取るとともに、現存の校舎を現地調査した。
上海での日本人教育事業は、1880年ごろに東本願寺別院での有志の寺子屋から始まり、1907年に上海居留民團が高等小学校を設立、1943年までに上海第1日本国民学校から第10同学校まで整備された。
このうち、上海事変(1932、37年)を経て、日本人が急増する39年から43年にかけて6校が新設された。100人単位の児童の転校が相次ぎ、落ち着かない教育環境だったことが教員の日誌に記されていた。
建設当初から戦時の日本人避難所として計画され、戦争の激化とともに軍が駐屯、教員が奉仕活動するなど軍事施設として使われていた。軍用を意識したしっかりとした建物であったため、10校中5校の校舎が現存し、現在も学校として使われている。
また、天皇の御真影(ごしんえい)や「教育勅語」を置く奉安室が校長室の中など校舎の片隅にあり、中国人の反発を意識していたこともうかがえた。
越桐さんは「日本と同じ教育が行われていたにもかかわらず、戦争と強くかかわり、教育と異なる役割も背負わされたことが分かりました」と話している。指導した大場修教授は「小学校は近代上海の日本人街の重要な構成要素でもあった。当時を知る人も少なくなっており、日本人街の歴史をまとめていきたい」と話している。
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